民主主義的スピリチュアリティって何?

私たちは普段の会話の中で何気なく「悟りを開く」という言葉を使っていますが、「悟りを開く」って本来どんな意味が有るのでしょうか?先日作家の高羽 そらさんがご紹介されていた、ヤン・ケルスショットの著書「ホームには誰もいない」を読んでみました。

その序文には「悟りに至る道を理解しようとするのは無駄な試みであり、海をジャムの瓶に詰めようとするようなものです。追求しようとする努力そのものが障害となり、すでにそこにあるものが見えなくなるのです。」と始まっていました。

スポンサードリンク



私を含めてスピ好きな人はとかく「成長」を求めて、スピリチャル的な道を探求する気満々だと思います。この著書では本来の全体性の中の私達の意識は個人的なものではなく、向上させる必要が有る様なものでは無いと言っています。また特別な教義や瞑想や修行などにいっさい頼ることなく、私達の本質に触れる事は可能であると言い切っています。また、そこに至る為のヒントをくれる実験も満載です。本書は一人の例外もなく至る事が出来る民主主義的スピリッチュアリティの手引き書とも言えると思います。

あなたはつらい修行の要らない民主主義的スピリッチュアリティ に興味は有りますか?

(本文より一部抜粋)

「私はすでに、自分が探しているものそのものである。私が探しもとめるもの、欲しいと思うものは何であれ、手に入れたいものとして延々と出てくるが、私の欲求はすべてホームに帰りたいという願いの表れにすぎない。ホームはワンネス、本来の私の性質。まさにここにある。シンプルに、ただ在るものに包まれて。どこかへ行く必要にないし、自分以外の何かにならなくてもよいのだ。」

スポンサードリンク



個人的な至高体験

先日近所の橋の上から見た夕焼けの景色に心を奪われて、空がまるで自分の一部の様に感じられた体験が有りました。夕焼けを見ながらこんな思いが湧いてきました。

201509131803

201509131803

私は今までず~っと勘違いしていた
今の自分はまだまだ!
もっとこうなりたい
1年後にはこうなっていたい!
あれが欲しいこれが欲しい!
いつもいつも先の未来に心を合わせていた
今の自分には不足感と欠乏感を感じながら・・
勿論目標が達成されると
一時的には達成感で頭も心も満たされる
でもそんなのほんの束の間の幸せ
直ぐに幸せの偽の仮面は剥がされる
薄っぺらなその仮面が剥がされると
また不安になって
幸せを求めて無い物ねだり
そんな事の繰り返しじゃ
いつまでたっても決して満たされない
本当の私は今ここにしかいない
だから何をやっても幸せだし
私はもう既に完璧な存在!
足りないものなんか何もない
勿論ワクワクする未来に心を躍らせるのは
素敵な事だって今でも思うけど
でも今はたとえ欲しいものが
手に入らないとしても
幸せを感じる事は出来ると思う
もう私に足りないものは何もない

というのが、夕焼けを見ながら感じた私の心境でした。時間にすると約1分位ですが、空との一体感を感じた至福の時でした。その後自転車を走らせながら、家に帰宅すると子供たちの争う声で、すぐ日常の喧騒に引き戻されました。日曜日の夕方に溜まった家事をこなしながら、「常にさっきの至福を感じた精神状態を感じながら、生きていきたい!」そういう欲求が高まりました。

でも、そういう考えが浮かんだ直後、「あ~あ!、もう私に足りないものは何もない?」そう言ったの誰だっけ?というおしゃべりも頭の中で聞こえてきました。

 「私に足りない物は何もない」そう思えないのはなぜ?

至高の充足感に包まれた一瞬を通り抜けてしまうと、後に残ったのはやっぱり、満たされない欠乏感。どうして私たちは日々満たされない欲求を抱えているのか?そうしたヒントが「ホームには誰もいない」にありました。

私たちは成長するにつれて、内なる自分にしたがって自然に生きずに、社会的な常識、学校教育、マスメディアが作り上げたイメージや信念体系に縛られ人間クラブに入会すると、ヤン・ケルスショットは言います。。

また源との意識的な接触を失っている欠如感から、物質的、感情的、精神的な満足感を求めるようになるとも。その為、パワー、お金、人からの注目や賞賛、愛、評価を得たいと思うようにもなります。

その結果他者支配に走り権力を手に入れたいと思ったり、知性豊かな人格を築いたり、社会的な地位を得たいと思う方もいるのでしょう。また、自分には力が有るという感覚を強化するために、より大きなものに所属したいと思う人もいるかもしれません。例えば、政治団体、宗教団体、民族団体、学会、スポーツのチームなどです。

ヤン・ケルスショットはこうした人間クラブでの活動をこう分析しています。

「物質的な成功も社会的な成功も一時的なもので、自分が築き上げてきたものもいずれは手放さなければならないのだ。このようなプロセスによって内なる自分の欠乏感を埋めているとしたら、私たちがなぜこれほどまでに自己中心的な生き方をするのか、より理解できるかもしれません。実はこの自己中心的な生き方は、本来の状態を取り戻そうとすることの表れではないでしょうか。このいわゆる自己中心ゲームをプレイしているのは実は自分のエッセンスに接触できないからこそなのだということが分かれば、この内なる源そのものを直接追求する方がはるかに面白いというのも納得がいきます。」

やっぱりそうだったのですね!

人間クラブに入会すると、本来の自分からかけ離れその後の人生をかけて、自己のアイデンティティを確立しようと必死になる。それは源から分断されている欠乏感を埋めようとしてただけなのね!

では、その源との繋がりを取り戻すにはどうしたら良いでしょうか?悟りを開けば良いのでしょうか?

悟りを開くってどういう事?

ジャイナ教では悟りを表すニルヴァーナ(涅槃)という言葉が有ります。wikiのこちらのページによれば、ニルヴァーナについてこの様な説明がなされています。

「あらゆる観点から言って安全だが行くのが難しい場所がある。そこでは老いることも死ぬこともなく、痛みも病もない。そこはニルヴァーナ、つまりあらゆる観点からの痛みからの解放と呼ばれている場所である。そこは安全で、幸福で、静寂な場所であって、偉大な賢者だけがそこへ行ける。そこはあらゆる観点から言って永遠の場所だが行くのが難しい。そこへたどり着いた賢者は悲しみから解放される。彼らは流れゆく存在を終わらせる。」

でもジャイナ教ではニルヴァーナの境地に達するには徹底した苦行、瞑想、不殺生(アヒンサー)、無所有の修行を行わなければならないそうです。また、修行でカルマを消して、微細な物質が霊魂から払い落とされないといけないらい。

どう考えてもそんなの無理!

そう感じた方は是非、「ホームには誰もいない」を読んでみてください。自分が何者かに気づく(私はそれが悟りを開くということだと思っていますが・・)のに苦行も、カルマの解消も、宗教も、瞑想も、教義も必要ない!それが、ヤン・ケルスショットの言う民主主義的スピリチュアリティです。

私たちの本質は、マインドが一生かけて必死に作っている自己のアイデンティティのすることを判断せずにジッと見ている観察者なのだそうです。本書にはその観察者に気づく為の誰にでも出来る方法を提案しています。詳しく知りたい方は是非本編をお読みください!

ではその観察者に気づくってどんな感覚なのか?それはマインドが作り上げた自己のアイデンティティが消えてしまい催眠にかかっている時の様な感覚なのではないかなと、私は理解しました。

自分の名前も曜日もどこにいるかさえも分からなくなり、ただそこにいるという感覚。生まれたばかりの赤ちゃんは、まだ社会的な自我が確立されていませんからこういう感覚で世の中を見ているのかもしれません。私も先日そんな感覚を瞑想をしながら、夢うつつの状態で味わいました。勿論その状態に気づいた時にはマインドが目覚めてしまいましたけど・・。

そこで明晰夢を見られると良いのですが、そこは高羽さんの専門分野ですので、高羽さんの著書等でお勉強してね♪

高羽 そらさんのブログです。

観察者の視点に気づいた事あったかな?

今までの人生の中で我を忘れている時間を過ごしたことは有りましたか?例えば荘厳な自然の中の風景にあっと息を飲んだ時。趣味に没頭している時。テレビを見ている時。車を運転している時。子供達なら妖怪ウォッチに没頭している時かもしれません。

そういう時はマインドのおしゃべりは止んで、社会的な自己は寝ている催眠状態です。でもハッとマインドが気づくと、気づく前にいたはずの何者かの姿はどこかに行ってしまっている。そんな経験は有りませんか?でも気づくと何故、その何者かはどこかへ行ってしまうのでしょうか?

実は私たちの本質は私たちの一部(マインドのおしゃべり)を目撃する事は出来ますが、だからと言ってエゴは私たちの本質を見る観察者には決してなれないという事実が有るからだそうです。ではこの体験の間には何が起こっているのか?

それは私たちの本質がそれ自身を見ているそうです!

マインドを放棄しあるがままに生きる

例えば暗い空間で映画を見ている時にはスクリーンの存在には気づく事は無いですよね。私たちの本質は実は映画の登場人物ではなくスクリーンの方なのです。

ヤン・ケルスショットは、この想像上の人物が必要がないと分かれば、私たちはこの人格をただ手放し、今ここであるがままを受け入れ、次に何が起きるのかもわから無いままに、至高や行動のすべてを裁くこの内なる声から解放されて生きる気楽さを説いています。

え!「マインドのパワーを放棄する?」
「そんな事したら、人生はコントロールを失いカオスを招く!」と、思いませんか?私もそう思いました。

ところが実際には、そうする事で差し出されるままの人生にそこでようやく心を奪われ、夢中になる事が出来ると言っています。

う~ん、「マインドの呪縛から解き放たれて、流れに身を任せる生き方をしよう!」ということは、「思考が現実化する」とか、「引き寄せの法則」とは全く逆方向の考え方??「それとも、そう思うのは私の早とちり?」今の所「マインドで人生をコントロールする、しない」に関しては、どちらが良いとも悪いとも言えないかな~。結局はこの人生をどう生きるか決めるのは自分自身だからね。

でも少なくとも、この本を読んで「私はすでに、自分が探しているそのもので、本来の私はここにいて、ただ単純にマインドのなすことを観察しているだけで、判断を下したりもしない。それは、私たちに話しかけてる内なる声でも、高次のエネルギーでもない。どこかに探しに行く必要もなければ、自分以外の何かにならなくても良い。」という点を読んで、「スピリチュアリティは探求するのではなく、ただ気づけば良いんだな!」と、思えたのが私にとってのリアリティでした。

スポンサードリンク




関連記事はこちら

コメントを残す

サブコンテンツ

このページの先頭へ