空腹はワンネスへ続く道♪

先日「食べない人たち」、「食べない人たちビヨンド」を読み、その勢いで長年不食を続けているジャスムヒーンさんが書かれた「リビング・オン・ライト」も手に取ってみました。以来、不食という一見非現実的にも思えるような話に心を奪われています。でも、これはおとぎ話でもなんでもなく現実に光で生きている方がいらっしゃいるのです。それもインドの山奥に住んでいるヨギでなく、私たちと同じように町に住み社会生活をされています。明日はそんな不食者のお一人の秋山弁護士にお会いしてきます。秋山弁護士は9年間も食べ物はおろか水も殆ど飲まずに生活しているそうです。

実はジャスムヒーンさんや秋山弁護士の事は3年前くらいから知っていました。でも、その当時の私は「食べないで生きるなんて絶対無理!あり得ない~!」と決めつけていたので、知人から話を聞いたものの、不食には全く興味が湧きませんでした。

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では、何故興味を持ったのか?

それは、ある友人が3週間の断食に挑戦して、見事にやり遂げるのを身近で見たのが大きいです。彼女は断食前後の血液検査のデータを見せてくれましたが、断食後も全て正常値の範囲に入っていました。また、血液観察もさせていただきましたが、酸化ストレスも減少し血液の状態が綺麗になっていました。そして、特に症状がなかったので、経過観察をしていた数センチの子宮筋腫も消失してしまった。と、話してくれました。

それに3週間も断食したら彼女はさぞ「ガリガリ?」になったのではないか?と実は心配していたのですが、断食後に会ってみたらびっくり、なんだか血色も良くすっきりしてとても健康的で綺麗になっていました。しかも彼女が言うには、断食とは苦しいものではなく、内なる自分との繋がりが強くなり心が満たされ、とても幸せな体験だった!と、まで言うでは無いですか?

最初彼女からそれを聞いた時には本当に「???」でした。「断食が平和?幸せ?一体どういう事?」それでも、「いつかは彼女のように断食を長期間してみたい!3週間も食を断った後には一体どんなどんな景色が見えるのだろう?」と、好奇心だけは一杯でした。ただ、私は大漢食デブのベジタリアンだったので、どうしても断食が一人では出来ませんでした。

それで、去年の秋に意を決して母を連れて、先日の記事でご紹介したように、断食合宿に参加した訳です。でもご紹介したように私の母は3日間の断食後、下剤を飲んだことがきっかけで本当にこのまま死んでしまうのでは無いか?と、思うほど下痢と嘔吐に苦しんで挙句の果てに2週間も入院する騒ぎになったものですから、私の中では「断食をすると、場合によっては死んでしまう!」という思いが強化されちゃいました。

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だけど、再び友人に薦められ「食べない人たち」を読んだら、空腹って実は気持ちの良いものだと書いてあって、実際体感してみたら本当にそれが気持ちが良かった!それで今はその気持ちの良い空腹の時間を、少しずつ増やしていこうと思っている次第です。そして、今日また新たな感覚に出会いました!

それはね今日、朝、昼と液体だけで空腹の状態を楽しんでいた時です。場所は息子のサッカーのお茶当番で出掛けた小学校のグラウンドです。さわやかな秋風が吹いている夕暮れ時に、太陽が真っ赤に光り周囲の雲も赤く染まっています。その時に、突然「夕焼け小焼けのメロディを奏でる学校のチャイムが鳴りました!」

そのチャイムを聞きながら、サッカーのプレイをしている子供たち、応援に来ている大人たちそして周囲の空気も校庭の木々も、今と全く同じ状況でこの場で出会う事は2度とないと思った途端、「今ここに全てが完璧に調和して在る事」がとてつもなく美しく、大切なものに思われました。「ここにただ、ただ自分が居られる」事に感動してありがたくって、涙があふれて来ました。「ああ~、ここに居られて嬉しい!」と。

青い鳥を探しに行く必要は何処にも無いんだと思いました。だって、幸せはここにあったのですから。と、今ならきっぱりと言えます。幸せは外ではなく内側から湧いて来るものなんだなと、体感しました。これが不食への挑戦とはジャスムヒーンさんも言っているように、内なる愛の源泉に繋がるっていうことなんだ!と、思いました。また、聖なる予言に書いてあった、第5の知恵(神秘的意識)を思い出しました。

(以下聖なる予言から一部抜粋します)

第5の知恵
神秘的意識

神秘的意識状態は、実際に到達可能なものであり、多くの宗教の神秘家たちがすでに経験したものである。ほとんどの人にとって、この意識は概念のままに止まるが、次第に多くの人々にとって、この意識は現実のものとなっていく。彼らは自分の人生の中で、こうした心の状態を一瞬、かいま見る体験をする。そして、この体験こそ、世界中の人類の争いに終止符を打つための鍵だと気づく。なぜなら、この体験をしている間は、私たちは他の源からエネルギーを受け取っているからである。そして、最終的には、私たちはこの源から、自由にエネルギーを汲み出すことを学ぶのだ。
心を開き、天とつながり、感謝の気持ちを持つこと。その天からの、風景全体が自分の一部のように感じられるエネルギーは、すべてのものに対して愛を感じる状態。
愛の役割はずっと誤解されていた。愛とは善人になるために何かするとか、道徳的義務感から世界をもっとよい場所にするとか、あるいは快楽を諦めるべきだというようなことではありません。エネルギーとつながると興奮し、至福感を感じ、それから、愛を感じます。この愛の状態を維持するために、十分なエネルギーを見つけることは確かに世界を助けるが、それよりもます第一に、自分のためになります。神秘的体験が起こると、その人のエネルギーの場は大きく広がり、白から、緑や青に変化する。宇宙全体との一体感、人生で私たちを導いてゆく出来事が、偶然を越えて起こるようになると、私たちはより活性化した人間になります。そして、運命が私たちを導いていくように感じます。授けられたエネルギーは恐れによる損失をすぐ取り戻し、新しい人間に生まれ変わって、より高いエネルギーレベルの中に行き、より高い波動のレベルに存在するようになる。
他人をコントロールする自分のくせ(無意識のコントロールドラマ)に気づき、それをやめなければ、そのエネルギーから切り離されてしまい、先に進めません。

(一部抜粋終了)

そうなんです!今日のグランドで体験した感覚は、まさにこんな感じで、突然風景全体が自分の一部になって、グランドにある全てのものが素晴らしく大切なものに思えました!空腹って実にすばらしい状態じゃないですか?消化にエネルギーが取られない分、普段使っていない脳の部分が活性化したのかもしれません!

そして更にこのグランドのステートですが、「夕焼け小焼けのチャイム」にアンカリングされたので、頭の中でそのメロディを奏でることで、その時の感覚を呼び覚ますことが有る程度出来るようになりました。ビバ空腹!

それから、そのグランドのステートに入りながら、昨日有る方から頂いたメッセージに対してした、自分の返信を思い返していました。その方は本当に皆さんの事を思う愛に溢れた方なんだけど、肉は良く召し上がるようで、私が書いたこちらの記事に対して、肉は肉でも、ちゃんと厳選された草を食べ放牧された牛やジビエ(野生動物)なら食べても問題なのでは無いかと思うのですが、どう思われますか?と、質問して下さいました。

私もまだまだ未熟な人間なので、二元論の世界に生きていています。でもなるべくなら、人を判断したり裁いたりしないようしたいと思っています。でも普段は愛に溢れたその方が、どうして肉を食べる事に固執しているのか?全く理解が出来ない!と、言わんばかりのこんなメッセージを送ってしまいました。

(メッセージ本文)

こんばんは!メッセージを頂きありがとうございます。 さて、ご質問の肉の件ですが、おっしゃる通りで自然放牧で牧草飼育された家畜やジビエであればケミカルフリーなので、問題が少ないというのは理解できます。 ●●さんは時々断食などもされていらっしゃるだろうし、きっと毎日お肉づけと言う訳ではないでしょうから、その辺りも体調に影響していると思います。

私はブログではああだ、こうだと理論をこねくり回していますが、●●さんがおっしゃるように、人は誰でも感性を働かせさえすれば、論文や誰かほかの人の理論なんか無くたって、本来自分は何を食べれば健康で居られるのかはおのずと理解できるものと思っています。

だから、私の先生は野生動物と自然です。 それで、肉食動物たちは肉のみを食べても健康で居られますが、彼らの生態を観察すると、獲物にありつけるのは必ずしも毎日ではない。草食動物の臓器を生で腸内細菌ごと食べる。こんな点に彼らの健康の秘密が隠されているのではないかと、私は考えています。 人間も彼らの様に肉を食べるようにすれば、健康を害することは無いのではないかと考えています。 余りに理論的じゃない答えにがっかりさせちゃったかな? (中略)

PS:最近私は不食への道程を楽しんでいます!「食べない人たち」という秋山弁護士さんらの書いた本を読んでから、空腹はとても気持ちの良い事だということを、ここの所少しずつですが理解し始めています。でも不食で生きている方がいる位ですから、この世で一番影響力が大きいのは意識だと思います。意識が健康でいる事を選択すれば、本当はどんなものを食べても健康でいられるのかもしれません。

だけど、私は母牛に生まれたばかりの子牛を、母豚に子豚をハグさせてあげたいなと思っているので、肉を食べない選択をしています♪

牛親子

「あなたが誰かを愛したとき」

あなたが 我が子を 抱いたとき 感動と 感激 そして 涙したでしょう。

そのとき 思いだして 下さい でも彼らは涙を 流す 余裕もなく 守ることすら 出来ない 彼らの ことを。

あなたが 明るく 生きているとき 人生の 楽しさに 小躍り したでしょう そのとき 思い出して下さい。

小躍り する ことも なく 明日すら ない 彼らの ことを・・・ 命が 捨てられ 命が 脅かされ 。

そして 命が 怯える・・・ 捨てられる ために 生まれたんじゃない 怯える ために 生まれたんじゃない ましてや 殺される ために 生まれたんじゃない・・

たったの 15年ばかり 普通に 元気に 生きる ために 生まれて きた 命。

もし 殺されるために 生まれて くる  命が あるとするなら

この社会は この世界は なんの ための だれの ための 空間 なのだろうか・・

(この詩私の作った詩では有りません。でも素敵な詩だなと思ったので、保存しておいたのですが、リンク先が消えていて何方が作ったのか分からなくなっちゃいました。でも私の心には響いたのでご紹介します。)

それではいつの日かお会いできるのを楽しみにしています。

(メッセージ本文終わり)

勿論言い回しは丁寧なのですが、実に愛のないメッセージだったかもしれませんし、傷つけちゃったかもしれません。自分の正当性を主張して意見を戦わせても、そこから先には全く進まないのにね。ベジに対する執着は今の私の課題かもしれません。だからこそ、一昨日こんなメッセージを頂いたんだと思います。(課題に気づかせてくれて本当にありがとう!これは私の癖ですね。ここに留まっている限り先に進めないって気づきました。)

では、なんてメッセージすれば良かったのか?今の私には明確な答えは有りません。と、思ったのですが、そこからしてまた二言論に陥っていますね。それに「相手を傷つけたかもしれないという思い込みの罪悪感」に縛られていますね!ダメだこりゃ・・。罪悪感恐るべし~。という事で、二言論を超えた世界に住んでいる秋山弁護士の話を聞けば何か感じられるかもしれません。明日学びに行ってきます♪

それでは、良い週末をお過ごしくださいませ!

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